まわりへの注意力

都会で生活している多くの人が、自分の周囲の環境や状況にあまり
意識を向けずに過しているなあ、とよく感じて、すごく心配しています。

電車に乗っていても、道を歩いていても実感することです。

仕事柄、いつも人間ウォッチングを通じて
いろいろな情報を得たり、ひとの行動の心理を理解をしたり、
共感したり、あるいは発見をしたりしています。

そんな中で、とても気になることがあります。

それは集団でおしゃべりをしていたり、あるいは、ひとりで携帯電話などで
誰かとコミュニケーションを取る状態に入ってしまうと、
普段はあれだけ周りの目を気にしている人たちも、
とたんにマナーのレベルや注意力が低くなってしまう、ということ。

そういう光景に心あたりはありませんか?

マナーや注意力の低さが出てきて、その人の本音がちらちら見えてくる人もいます。

コミュニケーションの内容に心を奪われてしまって、
周囲にボコボコぶつかりながら人垣を横切っている人や、
何を熱心に読んでいるのかわかりませんが、携帯を一心にいじって、
画面から目を離さずに電車に乗り込んだり、道を渡る人も多いですね。

そういう状態の人の前に、目の前にナイフを持って立ってみても、
きっと、本当に気づかずにいると思いますよ。

とても恐ろしいですよね。

相手が携帯をいじったりしているあまり、こっちも歩きや自転車で正面衝突しそうに
なったことが何度もあります。
これを読んでくれている人の中には、車を運転している最中にもっと
怖い思いをした人もたくさんいると思います。

携帯で話をしていなくても、左右を確認せずにベビーカーを悠々と押す続けて
道を渡るお母さんもかなり頻繁に見つけます。

これはほとんど自殺行為です。

あまりにもしょっちゅう目にする光景なので、
どうしてみんなこうなんだろう?と考えてみました。

答えは、たぶん、周りへの期待度や依存度が高いから、なのでしょう。

つまり、携帯電話で話をしたとたん自分の世界に引きこもってしまうことも、
ベビーカーをふらふら押し続ける行為も、ずべて、周りが「止まってくれる」
「空けてくれる」「見てくれている」という他人依存の発想が根にあると
感じています。

先日、バスに乗っているときも、お年寄りの交通死亡事故の大多数の
ケースは、本人の不注意によるもの、というポスターを見かけましたが
本人は「自分は大丈夫」「周りが見てくれる」と勝手に思い込むクセもあって、
きっと、こういうことになっているのだと感じました。

では、なぜ、他人依存の発想ができてしまったのか?
それには、いくつもの理由があると思います。
どういう環境で育ったかとか、躾や教育とか、本人の性格とか、
年齢や職業など、ありとあらゆる条件によって、人の行動は
決まっていきます。

出来上がってしまったものを、今さらいろいろと言っても仕方がありません。

しかし、そうやって自分の世界に引きこもってしまう、ということは
周りがなんとかしてくれる、車は止まってくれる、
電車の中ではみんなやさしくしてくれる、道ではみんな良い人、
という発想をどこかに持って毎日生きていることが、透けて見えてきます。

他人への甘えの発想ですね。

でも、これは人生の哲学に反していると思います。
自分のことは、自分で何とかするもの、と教わりませんでしたか?

ちゃんと、自分の中にある「気配を察知するセンサー」が働いていて、
どこにどういう危険があるかもしれないな、という予測する力や
見る目を養っていかないと、せっかく自分に目や耳や鼻があっても
まったく役に立たないただの「体の付属物」になってしまいます。

そうすると、どういうことが起るか?

チャンスがやってきても逃します。
ありは、あ、チャンスだ、と思っても、瞬発力がないので、
つかみ損ねてしまうこともあるでしょう。

もったいないですよね?

電車に乗っていると、時々、目の前でボクの登場する雑誌記事を読んでいる人に
時々出会います。
しかし、本人はそこに没頭するあまり、目の前にいるボクという本人に気がつかないのです(笑)。

そこで気がついてくれたら、また新しいコミュニケーションが取れたかもしれないのにね。

もったいない!!!

さて、このブログを携帯で読んでいる、そこのあなた。
顔を上げて見て下さい。
もしかして、いま、目の前に、憧れのあの人が立っていたりしませんか?

自分の世界に閉じこもらないこと、周りへの注意力を上げる。
これも、キャリア・デザインの王道です。

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自分を見つめることと、他人と共に生きること:バランスの話

自分の内面をじっくりと見つめる作業って、みなさんはしたことがありますか?

内面を見つめるという作業は、意識をじっと集中しないと
なかなかできないものですね。
なぜなら、自分をしっくりと観察することですから。

しかし、一方で、意識を集中しすぎてしまうと、外部との接触を絶ってしまう
(つまり、自分の世界に閉じこもってしまう)ことも起きてしまいますが、
それはあまりおすすめしない状態です。

というのも、人は居心地のいい空間や感覚を日々求めて生きていますが、
その度が過ぎると、どうして一人よがりな自分だけの世界に入り込んでしまう傾向があるんです。

実は、数日前に、ボクのやっている『デュボワ・メソッド・スクール』ベーシックのクラス
ちょうど興味深い例が起きたので、そのお話をしましょう。

デュボワ・メソッドは、キャリアデザインのためのトレーニングメソッドなのですが、
例えば、自分の持っているバイタリティーを上げたり、
周りに翻弄されずに自覚した意識で行動をしたり、
エネルギーの無駄遣いをやめる方法を見つけたり、と、
自分の道をできるだけいい形で生きる方法論を提供しています。

そのメソッドの中でも、とくに特徴的なのが、音楽を使ったワークです。
これは、ボクがアフリカに住んでいた時代に学んだことが基礎になっています。

手短かに説明すると、いわゆる表からでもわかりやすい技巧的な素晴らしさや
軽やかで華やかな演奏を求めるよりも、もっと、音楽を演奏することで感じ取る
内面の感覚の鋭さや細やかさ、集中力の度合いや動きを探りつつ、
自分の中にある創造力を駆使して音楽を内面化していく作業をしてもらいます。

こちらが一定のテンポを提供して、受講生にボディーパーカッションで演奏してもらいます。
このワークは、主に二人一組のペアで作業をしてもらいます。

先日のクラスで、二組のペアが隣同士で座ってワークをしていたのですが、
片方のペアがどんどんと打つ手が鋭くなってきて、テンポが速くなっていきました。
一方、隣でワークをしていたペアは、だんだんと早く鋭くなっていく隣のリズムに
抵抗するように「翻弄されてはいけない!」とばかりに、なるべくゆったりと、
お互いの手を打つ音も穏やかなものに変化していったのです。

結果的に、まったく違う音とリズム空間を持った、二つのペアが隣合わせになり、
お互いがバラバラの演奏をしていったのです。

ここで演奏を止めてもらって、
「いま、どういうことが起きて、ここまでバラバラの音になってしまったんだろうか?」
という質問を全員にしてみました。

リズムが早くなってしまっていたペアは、あまり周りのことが耳に入らなくなり、
とにかく、二人のリズムを作っていくことに一生懸命になっていたようです。
そして、隣のペアも、早くなっていってしまう他所はいいから、
とにかく二人にとっていい音を創っていこう、外の音よりもパートナーさんに合わせよう、
という意識が芽生えた、と話していました。

つまり、お互いのペア同士で合わせる、という意識がうすれて、
その代わりに目の前にいるパートナーさんとの絆を強く作業に夢中になってしまったのです。

このときに、現実社会でもこれとまったく同じことが起っているな、と感じました。

つまり、友情や似たもの同士で構成されているグループは、だいたいこういう問題に
直面しやすい傾向にあります。
お互いにとって「心地よい」空間をいっしょに作り上げることが、かえって、他の人から
外れてしまって、自分達だけの空間に閉じこもってしまう傾向も生まれるのからです。

ここで説明をしたいのは、このエクササイズを通して、自分の内面を見つめて欲しいのだけど、
その作業で自分を離れ小島みたいな状態になることを奨励することではないですよ、
ということなのです。

むしろ、他の人と一緒に演奏しやすい状態がどういうことなのか、自分の身体と演奏を
通じて探っていく作業なのです。
他人と調和して弾くには、まず自分がどういう音を出しているか知る、つまり自分と調和する
ことが前提になってきます。それから、パートナーの音とのやりとり、そこからさらに周囲のほかの
ひとの音や雰囲気、といったものへと、徐々に注意力と集中力を広げていくことができます。

人間は社会から隔離されては生きてはいけないもの。
人は社会性のある動物なので、他人と接触することで生きる智恵を学んでいくものです。
これをうまくやっていくには、まずは、自分を知ること、に立ち返ってくるのです。


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来日10周年記念

1998年の3月15日に東京に来て、住むこと10年。
明日は、ボクにとって10年目の記念日です。

日本に来るにまで至った経緯を話すと、とても長くなってしまうので、
これはいつか本の題材にするとして、きょうは、日本を選んだ理由に
ついてちょっと書いてみたいと思います。

しかし、はたして自分の意志で選らんだのかどうか・・・・?!

1998年当時、フランスからできるだけ遠いところに行けないものかどうか
行くあてを探っていました。
もっと具体的に言えば、その当時結婚していた妻と残念ながらうまくいかなくなってしまい
いっしょに生活をしていたアパルトマンから、できるだけ離れたところで
しばらく暮らしていきたい、という気持ちが強かったのです。
その後、修復できずに別れてしまったのですが、当時はそういう事情を抱えていました。

まずは、自分の状況を客観視して、しばらく一人になって頭を冷やせば
またきっと元通りになるという期待をしていました。

まず、まっさきに頭に浮かんだ行き先がカリフォルニアのLAでした。
以前に何年か住んだ経験があり、友人もいたことが理由でした。

しかし、どの友人に連絡をとっても、ネガティブな答えが返ってきたのです。
結婚したばかりで新しい生活に慣れるのに忙しい、
今度子供が生まれるからいまはお世話できないわ、
いま仕事がすごく多忙で、などなど・・・。

とにかく、国際電話で話をしたところでは
どうにもならないのがアメリカ式で、
まずは現地に行ってみないと!というのを実感する答えがずらっと
目の前に並びました。

同じ時期に、パリに住む日本人画家の友人が、ボクに東京行きを勧めてくれました。
「東京の友人で、すごく信頼できる人を紹介するよ。彼だったら
きっと家さがしと日本での暮らしを何かと手伝ってくれるから。」と。

言われるままにその友人に連絡をとってみると、ほんとうに親切な人で
まずは小さなアパートを借りて、それから何ができるか様子見をしてみよう、
ということを言ってくれたのです。

こうして、自然な流れにのって、日本に来ることを決めたのです。

たいがいのフランス人なら、同じルーツを分かち合う白人が多く住む
アメリカを選んでいたと思います。
向こうには、大きなフランス人コミュニティーもあるし、
そういう見方をすれば、向こうに住むことのほうがずっと簡単で自然に
見えるからです。

しかも、ヨーロッパに住んでいると、アジア人との関係をどうやって
築いていけばいいのかはわりと分かりにくいものなのです。
本音や建前の使い分け方などの理解は、その典型的な例ですね。
聞いたことはあったけど、何となくわかるようなそうでないような・・・という
ものでした。

こうして、いろいろなことを経験してきて、
日本での10年が過ぎようとしています。

この選択は決して後悔していません。

日本に住む手伝いをしてくれた友人は今でもずっと大切な
友人でいてくれていますし、たぶん、流れに逆らわずに
いい船に乗り込むことができたのではないかと感じています。
来日当初は、言葉、文化、食べ物、社会のルールなど
とにかくたくさんの壁にかこまれて生きざるを得なかったけれども
「こっちだ!」という直感に従うことが、道を踏み外さない一番の
武器だ、というのを実感しています。

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